BS1スペシャル ナイキを育てた男たち ~“SHOE DOG”とニッポン~




◇放送局・放送日時
NHKBS1・2018/4/29(日)・22:00~

◇内容(なんとなく)

◆ナイキを救った男たち

東京・表参道

NIKEの新作シューズの発表

世界最大のスポーツブランドNIKE

日本企業の支えがなければ生まれていなかった

ナイキ創業者フィル・ナイトの自伝
『SHOE DOG』

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危機に直面した際、ニッポンが何度も救ったことが記載されている

ナイキ本社
オレゴン州ビーバートン

敷地面積は東京ドーム35個分

ナイキ創業者 フィル・ナイト(80歳)

▼靴に全てを

大学時代はオレゴン大学陸上部所属

当時、アディダスやプーマなどのドイツ製が市場を独占していた

戦後15年、アメリカではドイツ製のカメラを日本製のカメラが追い抜こうとしていた
フィル・ナイトはスポーツシューズでも同じことができると考えた

1962年 24歳で来日

オニツカ(現アシックス)創業者 鬼塚喜八郎

『私の履歴書』鬼塚喜八郎・著(日本経済新聞社)

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アメリカ西部13州での販売を任された

1964年 帰国したフィル・ナイトは陸上仲間と会社を設立

「BLUE RIBBON SPORTS」
オニツカとの交渉で咄嗟に出た会社名

ナイキ創業メンバー ジェフ・ジョンソン(76歳)

当時のシューズの研究開発がオレゴン大学に残されている

アシックス本社(神戸)

林英雄(当時のオニツカシューズ開発担当)
初めて共同開発した「コルテッツ」シューズ

▼お金が足りない

利益の全てを新たな靴の購入に充てた

ナイキ創業メンバー ボブ・ウッデル(73歳)

当時はベンチャーキャピタルもなく、利益は全て再投資していた

しかし、自転車操業を行うフィル・ナイトに銀行は融資を打ち切った

日本の総合商社「日商岩井」に支援を申し込んだ

皇孝之(当時の日商岩井ポートランド支店営業担当)

商社金融
銀行とは違う日本商社の融資スタイル

1971年NIKEブランドを立ち上げた

しかし知名度が低く売上が伸びなかった

日商岩井に対して期限内の支払いが困難に

担当の皇孝之が調整

「プリモントリオール」
「ウィンブルドン」
「オレゴンワッフル」

ミュンヘンオリンピックでアメリカ人選手が64年ぶりにマラソンで金メダル獲得
ランニングブームが起きた

バータ靴博物館(カナダ・トロント)
上級学芸員 エリザベス・センメルハック

ナイキはトップアスリートの要求を満たしながら同時にファッション性も備えた靴を登場させた
スニーカーに新たなジャンルを切り開いた

▼最大のピンチ倒産の危機

メインバンク「BANK of California」からの取引停止
小切手の不渡りで口座凍結

伊東忠幸(当時の日商岩井ポートランド支店経理担当)
フィル・ナイトが「アイスマン」と呼んでいた

伊東忠幸はバンクオブカリフォルニアの“貸しはがし”だと考えた
日商岩井が借金約1億9000万円(当時)を全額肩代わり
本来は社長の決済が必要だったが伊東忠幸が決断した

伊東忠幸はこの件で会社の規定を破ったと解雇の辞令が出た
後に本社の取締役の尽力でこの辞令は取り消された

▼フィル・ナイト日本への思い

双日本社(日商岩井とニチメンが合併)

フィル・ナイトから贈られた靴のオブジェが飾られている

双日 藤本昌義 社長

「そういう熱意を今一人一人が持ってほしい

フィル・ナイトは「SHOE DOG」にメッセージを書いて皇孝之に贈った

本を手にした皇孝之からのメッセージにフィル・ナイトの目には涙が

ナイキ本社には「Nissho Iwai日本庭園」がある

フィル・ナイト
日本のビジネスマンはアグレッシブではないとか起業家精神がないとかリスクを取らないという見方は本当だとは思わない
学生の時は優秀なのに社会に出るとリスクをとることを怖がり失敗を恐れる…それを今は乗り越えた
日本には今も素晴らしいビジネスマンやリスクテイカーがいる
未来は言われているよりずっと明るい

日本の若者たちへのメッセージ
若い頃に学んだ最も重要な教訓

「最後まで挑み続けろ」

◇クレジット(一部)
<語り>小栗旬

<声の出演>青二プロ

<取材協力>アクタガワタカトシ、兼近俊哉、満行慎一郎、古郡陽介

<撮影>山崎章由

<編集>三枝史

<取材>佐藤庸介

<ディレクター>柿木浩一郎、前田海一

<プロデューサー>東條充敏

<制作統括>野口修司、上田拓

<制作・著作>NHK

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